近年、SNSや書籍では「自己肯定感を高めよう」「自己肯定感が低いと生きづらい」といった言葉があふれている。でも、そもそも「自己肯定感」って、本当にあるのだろうか? ちなみに「新明解国語辞典(三省堂)」では 未収録語であったと思う。
自己肯定感という発明
自己肯定感という概念は、近代心理学の発展とともに生まれた比較的新しい言葉だ。日本だとバブルが崩壊した1990年以降だろうか? それまでは自分で自分を愛せよというテーマは注目されていなかった(多分)。余談だが、ニュアンス的に「自助」とすれば、その言葉をとっくの昔80年代に楽曲に入れたのは細野晴臣氏。
それまでは「誇り」や「自信」や「徳」といった言葉で自己を評価していた。つまり「自己肯定感」は発見というより、発明に近いものだ。
そして、発明されたものには、常に文化的背景がある。たとえば、競争社会、成果主義、SNSによる自己比較……。
そんな背景の中で、人は「肯定感があるか・ないか」という二元論に分類されるようになった。
けれど私は思う。自己肯定感って、そんなにハッキリと、あるとか、ないとかで区切れるものなのだろうか?
自己肯定感は、平均ではなく「揺らぎ」である
自己肯定感が高い、と言われる人でも、時に自分が嫌になったり、落ち込んだりする。
逆に、普段は自信がない人でも、ふとした瞬間に「私、けっこう頑張ってるじゃん」と思えたりもする。
つまり、自己肯定感は「数値」や「安定した人格」ではなく、揺らぐ存在だということだ。
それは、天気のように変わるものであり、他人の言葉や体調、環境、ホルモンのバランスにも左右される。そう考えると、自己肯定感を「安定した性格」として捉えること自体に、無理があるように思える。
自己肯定感は「身体感覚」である
古代の東洋思想において、健康とは「全体としての自己と自然との調和」であり、単なる肉体的状態ではなかった。つまり、健康とは形而上学的なものであった。
それと同じように、自己肯定感も観念ではなく、感覚に近いものなのではないだろうか。
たとえば、
深呼吸して気持ちよかったとき
誰かに「ありがとう」と言われたとき
自分のペースでご飯を食べられたとき
そうした瞬間に「なんとなく、今の自分でいいかも」と思えることがある。
それは、論理でも、思考でもない。今ここにいる自分の、身体を通した安心感だ。
「存在するか?」ではなく、「感じられるか?」
ここまでくると、タイトルの問い──「自己肯定感って、存在するのか?」に対して、
私の答えは多分こうだ。
自己肯定感は、存在するものではなく、感じられるものだ。
だから、それを探しに行くのではなく、
揺らいでもいい自分を許すこと
小さな満足を見つけること
体を休めること
そんな積み重ねの中で、ふと感じられるものなのかもしれない。
おわりに──形のないものに、やさしくなろう
「健康とは、自然に従うこと」という言葉がある。
同じように「自己肯定感とは、自分の自然に耳を澄ませること」なのかもしれない。
かたちのないものに対して「ちゃんと存在しろ」と言うのではなく、
「なくても大丈夫」と言える強さへのアプローチがポイントと考える。
See how the world goes round
You’ve got to help yourself
See how the world goes round…
Written by Haruomi Hosono, Peter Barakan, Ryuichi Sakamoto, Yukihiro Takahashi
蛇足ですが、この曲「以心電信」は歌詞の私的で内向的なトーンに対して、メロディーがセレモニーなのです。